昭和50年05月11日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
職業化した宗教家とでも申しましょうかね。それが職業化した宗教そういう神様やら仏様のある中にね、此方は銭金では拝まぬ。金光教のまあ潔癖とでも申しましょうかね。御本部へ参りますと沢山なお道の教師を志す方達が、それこそ黒衣に身を包んで若い身空の、まだそれこそ春秋に富むお道の教師としての教養、又は信心又は修行を一生懸命しておられる姿に触れると、惟は何時の場合でも思うのですけど非常に感動する。
本当に神様が、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよという神様の悲願である。その神様の願いである願いを、世の中の難儀な氏子に、その願いを成就する事の為に奉仕をする。それが私はお道の教師の建前でなからねばならない。仕事ではない。職業ではない。もうそこに取次者としての、という金光様の先生という仕事を身につけるというのではなくて、本当に神様の手にもならして貰おう、足にもならして貰おうという、しかも終生変わらぬ願いを誓いとして、お道の教師に皆さんなられる訳です。
それがお道の教師としての建前です、ですから勿論神を商法にする、言うならば御祈祷料等と云ったものが有って良かろうはずがない。もう自分の身自分の家族はもう神様にお任せしてある。言うならばぁ食べ物がないなら、もうそれこそ食べん腹で、お金が無いなら無いなりにという程しの、私くしは神様へ対する頂き方と云う物が、そういう姿勢をもって、お道の教師というのもはあらねばならないとこう云う訳ですけれども。
果してどうだろうか今の金光教の沢山の教師が居りますが、職業化しておる教師がありはしないだろうかと、惟は改めて私くしを含めてそれを思うので御座います。そこで私は考えさせて頂く事はです、成程神様が世の中の難儀な氏子を、お取次助けて下さる働きを取次者に願われる。いうなら天地金乃神様が教祖の神様に、立教神伝を見れば解ります様に、言うならば神頼み神様が金光大神に頼まれる。
そこには今までの仕事と云う物を投げうって、家内も後家になったと思うて、いうならば神を助けてくれと云う程しの、願いと云う物を私共が受けなければならん。それこそ死んだと思うて、欲を放してと云う事にならなければならない。果たして私共がそう言う欲を離して死んだ気でのお取次が果たして出来ておるだろうか。生きる為にお道の教師を志しておる。言うならば矢張りお道の教師として一つの宗教家というか職業だ。
それはそれで立つ所もありましょうけれども、お道の所謂金光様の御信心はそれでは立ち行かない。それでは信者は所謂氏子は助からない。昨日のお月次祭を惟はもう度々のお月次祭たんびに思うのですけれども、昨日当たりの場合はそれこそ御神前を埋め尽くす様な沢山のお供え、そういう例えばおかげを受けておる合楽教会又は私である。もう金光教の先生ちゃもう随分な贅沢が出来たり又は沢山なお供えの中に生活して行く。
そんなら皆んなお道の教師又は教会が合楽の様におかげを受けておると云う所は、実に少ない。言うならばまあー細々とした、その日暮らしと云う様なまあ細々としたその日暮らしと言えば如何にも淋しい感じがするのですけれども、まあ言うなら有難いその日暮らしという教会が多いのです。けれども実も言うたらです、私くしはもう大いに今日あたりの御理解じゃないが、神を売って細々と食べておると云った様な教会やら、教師があるからだと云う風に、決め付ける訳じゃないですけれども。
私は思わなければいけないと思う。まあいうならば、金光様の先生をさして貰うて、貧乏でもする様な事があっちゃならない。金光様の先生をさせて頂く者が、食べ物にども不自由する様な事があっちゃならない。もう人間の幸せの条件の全てが、足ろうて行かなければ私は嘘だと思う。何故かというと神様にこの身も心も捧げてあるのだ。神様がそれを見て下さらないと云う事がないと云った様な事があって良かろう筈がない。結局捧げておると言いながら、捧げておらずに自分の職業の為に。
例えばこのお結界に奉仕させて頂くでもです、信者がお参りして来る事の為にこのお結界に座っておると云う事もありますけれども。何時神様から神様の御用人ですから、どう云う御用があるやら解らない。何時神様からどう云う命が出るやら解らない。それを受けて立たんならんのが、取次者であるにも係らず、信者がお参りをして来るお賽銭の音がチャランチャランと音がすると、裏の方からここに出て来る。
もうこういう私くしは生き方の先生が、まあー言うならば現在お道の中じゃ沢山ある。それは言うならば信者が助かる事の為ではなくて、自分が助かる事の為に、自分が助かると云う事は、食う為に云わばお道の先生になっておると言われても私は仕方がない。それでは神様がおかげは下さらない。本当のおかげは下さらない。金光教という教会の言わば看板を掛けておるから、その看板にまあー言わば免じて、神様が細々とその生活だけはさせて下さっておると云った様な教会が沢山ある。
して見るとこの頃の金光教は、成程金光教の潔癖とでも申しますかね、只今申します様に銭金では拝まんと言うのが看板で有りながら、銭金で拝んでおる教師、教会が沢山あるのではないか。此処に今の金光教の言わば、金光教の不振とでも申しましょうかね、振るわないがそういう原因がある様に思います。昨日私は月次祭の中に申しました、信心のある者と無い者は、親のある者と無い者の違いだと。教祖様の御教えの中にあるが、金光様の御信心をさせて頂いて。
成程親様じゃなあ、親神様じゃなあ、本当に私に金光教という宗教がもしなかったならばと言える程しのおかげを頂く事が、親のある子と無い子の違いである様にです。合楽に御神縁を頂いとる方達がです、もしも合楽がなかったならば今の私はない。今の私の一家は無いと思われ言われる程しの、おかげを頂いて始めて、親のある子と無い事の違いがそこにあるのだという意味の事を聞いて頂いた。
だから、問題は皆さんがおかげを受けなければならん。皆さんがおかげを受けて始めて、それが親のある子とない子程の違いじゃなあと云う事を、実感さして貰うての信心生活が出来る。そこで私は今日の御理解から言うならばこの九十五節と云う物は、一般信者に対する御理解ではなくて、道の教師を志す者又道の教師に対してそう言う、こういう心がけでなからなければならないぞと教えておられる御理解だと思いますが。
だからお道の教師たる者、かくなからなければならないと云う事ですけれども、だから斯くあっておる、もし教会ならば必ず人が助かっておる。それこそ物やら金やらに不自由する様な事があって良かろう筈はない。まあいうなら素人の見分け方とでも申しましょうか。この教会は本当のお取次が出来ておられる、銭金で拝み御座るとじゃない、欲得でじゃないと云う事を、先ず見極めて頂くなら、第一にです皆さんが合楽教会の例えば、いうならば御比礼とでも申しましょうか。
惟はです私くしが修行中にはもう、それこそ食べるにも食がなかった。着る為の着物がなかった。住まう家もなかった。そういう時代もありました。けれどもあの椛目で人が助かり出して此の方と云う物は、物、金、一切の物に不自由した事がありませんです。それは今と段が違います。そして同じ着物でもです、一番始に着物のお供えを頂いたのは、古物ではありますけど、まだ主人が手を通しておらなかったと云った様な着物のお供えがありました。木綿物のお供えがあったり、銘仙物になって行ったり。
又は絹物になって行ったりと云う様に、段々値段でいうならば、百円の着物から千円の着物千円の着物から万円の着物と云う風に、こちらの信心過程を着物だけにでも現れておる様な感じですけれども、不自由はしなかったと云う事です。如何に私が椛目時代から欲得で、それはお道の教師の資格も持たないのに、人が助かるのですから、随分いろんな事を言われもし、又ひどい事の仕打ちも受けて参りましたけれどもです、銭金で拝んでおらん、云わば無条件のお取次をさして頂いとる。
神様のいうならば頼みを受けてのいうならお取次であった証拠に何んにも不自由しないと云う事なんです。だからその事実を皆さんがです、成程合楽では銭金で拝み御座るとじゃないと云う事が、先ず解らして頂かなければ信が生まれません。信とは信ずる心が生まれません。それは決してお供えとか沢山なお金のお供えがあるとかと云う事だけでは、その教会が立派とか立派でないとか決めてしまう訳には参りませんけれども。
私くし共は思います、いろんな非難のある教会もありますけれども、人がどんどん集まる人が助かっておる。教会が立派になって行く。私はそういう教会ならばそこの先生のやり方が、所謂経営方針が良いから繁盛しておると言う事は思わん。やっぱりそこの先生が神様に通う物を持っておられるから、人が助かるんだと。どんなに立派な事を言うておっても、惟は如何にも金光様の先生の言うなら、見本の様に言うておっても、教会と云う物は、こうなからなければならないと云う事を、言うておってもです。
事実人が集まらない人が助からない、難儀をしておるというならば、それは私くしはおかしいと思う。惟は私は一番言うならば、教師とか教会の一つの見分け方だと思います。妙な言い方ですけれども、そう云う所でです、例えばなら合楽教会に果たしてというて、只参っておりますからと云うておかげ頂くのじゃない。その見極めが付いたなら、本気で昨日の月次祭のお説教の様にです、打ち込まなければいけません。此処なら打ち込み甲斐がある、打ち込めば打ち込んだだけの物が頂けれるという。
私は確信を持ってです打ち込んで行く。今日は言うなら、お道の教師に対する御理解であります。この九十五節を聞いて頂きながら、金光教とはかくなからなければ教会だ先生だと、まあー今日の御理解点前みそになるかも知れませんけれども、問題は皆さんが助かって貰わなくてはならん為には、皆さんに打ち込んで貰わなくてはならない。打ち込んで貰う為には、打ち込みがいがあるぞと言う事をです、この教会から確信とか確認して貰わなければならない。
そこに教会も立ち皆さんも愈々始めたり、愈々合楽教会有って、私の家があると言う様なおかげを受ける事が出来ると思うのです。只世には神を売って、お守札を売ったり、又御祈祷料を取ったりと云う様な信心も矢張りあります。だからそういう意味を此処では言うておられるとも思いますけれども、惟は金光教の信心の中にです、鋭く今日はメスを入れた様な意味でのお話を聞いて頂いた訳です。
メスを入れて果してなら私くし共の信心にです、血が出るか膿が出るか、とするならばその血膿をすっきり出して、本気で神様の神頼みに答えさせて頂けれるというお道の教師又は教会であって、始めて神様の御比礼を愈々輝かし申し上げる事が出来ると云う事は、皆さんがそこに本当の意味に於いて助かる事が出来ると言う事に繋がるので御座いますから、そのへんの所の私くしは見極めをです。
一つなさらなければいけないと思う。先日ある教会の御信者がお参りをして見えて、どうにも出来ない問題であったが、御理解を頂いて、それこそ憑き物が落ちた様に心が助かった。その翌朝からお夢を頂かれた。今までの信心は山吹の花の信心であったと誰かが言うた。お夢の中で。惟からは花も実もある信心ぞというお声を頂いたと云うお知らせを頂いたと云う事であります。
所謂私くしはなら合楽でもです、只山吹の花の様なおかげに留まらず、只おかげおかげに留まらず、花も実もある信心を、又はおかげを受けて頂きたいと思います。どうぞ惟は教会自体の又は教師自体の反省と同時にです、信者も矢張りそういう一つの、惟なら此処ならば打ち込んでも打ち込み損んになる様な事はないという、一つの見極めを付けて本気で打ち込んで頂きたいと思いますね。
どうぞ。